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生活

こちらわたしの遺言状。

じぶんなんて生まれて来なければ良かった、ずっとそう思っていました。この世に生まれてこなくて良かった命なんてないだとか、辛いのは貴方だけじゃないとか、そういう理論、誰が言い始めたのか知らないけど一生同意とかできません。
僕は要らない命だってあると思うし(てかそれが私だし)、辛いのは今の私であって他人とは違う。そもそも一人一人辛さのベクトルも許容範囲も違うんだから、同じように辛いんだと考えているんだったらお前は相当サイコパスです。
私はあなたが生きていてくれて嬉しい?そうですか。僕は僕が今生きてんの超キモいと思うし、別に君が明日死のうがどうでもいいです。他人なので。死んだんだ。ふーん。終わり。
そもそもお前のために生きてないのに勝手に幸せとか悲しみとか決めないでくれ不快
お前には「まだ」迷惑かけてないからそんなこと言えるのかもしれないけど、私は生きているだけで他人に迷惑をかけてしまったり、人を不安にさせたりするようなゴミみたいな人間なので、お前もそのうち僕のことを嫌いになって、僕から離れていくんでしょう。僕は知ってる。離れるぐらいなら、最初から好きだとか愛してるだとか言って、近づいてこないでくれよ。不安にさせないで。お願いだから。
生きてるだけで、害。小学生になる少し前、物心ついた時から、そんな事とっくに解ってた。集団生活に馴染めない。怒られてばかり。友達はいない。

中学生の時にはもう漠然と死にたいなーと思っていたし、高校生の時はそれが明確な「死にたい」になっていってた。
でも今思えば僕が高校生だった時の「死にたい」なんてお遊びレベルで、当時は僕の体感として今よりインターネットの(ファッション)メンヘラ界隈やサブカル、アングラ界隈が賑わっていて、その流れで、クソサブカル気取り女だった僕もそんなファッションや言動、行動をするようになっていった。そうすれば自然と仲間も、そして何故か所謂“信者”みたいな人も付いてきた。"死にたい"自分に酔ってた。要は僕もファッションメンヘラだったってこと。ウケる。
確かに大量服薬で自殺を図ったり(当時は知識が皆無だったので、とりあえず家にある薬を全部ひとまとめに飲もうとしていた。母に止められたけど本当にやらなくて良かったと思う)、ストレスの発散方法がわからなくて、高校に行く前に力任せでカッターで思いっきり腕を切ってそのまま家を出たり(セーターを上に着ていたので学校ではバレなかった。ブラウスを洗濯した母が気付いていたのかは不明だけど、そのブラウスが洗濯から戻ってきたら、血染みの1つすらなかった。)
あとはやはり高校生らしく、大学受験に全てを賭けていたのだけれど、美大志望の僕と、進学校の教師で名門大学への進学率が評価に直結すると思われる担任との折り合いは本当にとても悪かった。書くのもうんざりするぐらい陰湿な嫌がらせの言葉だってたくさん言われた。当時の僕は、志望校に入れたら無条件に幸せになれると思い込んでいたので、受験勉強はそれなりに頑張っていた、と思う。今となってはわからないけれど。結果は第1志望は補欠、第2志望は合格という何とも中途半端な結果。全落ちよりはマシだし、迷ったけれど浪人する勇気もなかったので第2志望の大学へと進んだ。僕は頑張ったと思っているけれど、頑張らなかったから第1志望はこんな結果なんだと思う。僕はいつもこう。何をやっても中途半端だ。
さっき、志望校に入れたら無条件に幸せになれると思っていたと書いたけれど、逆に大学受験に失敗したら僕の人生は終わりだと思っていた。だから、落ちたら高校の屋上から飛び降りて死のうと思っていたのに、結果は補欠。第2志望には合格。なんて中途半端な結果なんだろう。死ぬタイミングを失ったのは、この時が二回目。


さあ晴れて大学進学、新しい日々、新しい友人。充実した生活。こんな僕でも新生活への希望はそれなりに抱いていた。でも、本当の地獄はここからだった。待っていたのは、コミュ障陰キャ故の暗く辛い生活。友達がいないから単位が取れない。飲み会にも誘われない。サークルも入る機会を逃す。話しかけられるとキョドる。こうして僕は入学直後からじわじわと孤立していった。
明確に「ここは私が居て良い場所ではない」と感じたのは入学後の写真撮影の時で、学科でコンセプトを決めてそれに合わせて写真を撮ろうということだったのだが、前年度の話を聞くと「パジャマ」だったそうなのでそこまで警戒はしていなかった。ところが決まった案を聞くと「オタク」と。…ああ、この学科学年にはオタクなんてものはいないんだな。
撮影時には勿論皆、ジーンズにチェックシャツinだの、リュックだの、メガネだの、バンダナだの。何十年も前からアップデートされていない典型的な「オタク」のイメージを個々で固めてきており、中学校の体育祭以来の惨めさを感じた。
こちとら普段からオタクファッションなのだ。何故ならオタクだから。チェックシャツにジーンズ、メガネにバンダナ、リュックを背負っている時、人生最大の惨めさを味わって泣きそうになりながらアハハ、と笑って誤魔化して撮影を終えた。
その日は誰にも言わず一人とぼとぼと家に帰った。

こんな感じで大学生活をスタートさせた僕がその後の4年間人権のある生活を出来るはずがなく、大学2年の夏には遂に動くことが出来なくなり、休学。2度目の2年生の春。色々あって二人のお友達ができました。Rちゃん、Kちゃん。色んな話(偏りあり)をして、色んな場所(偏りあり)に行ったね。RちゃんとKちゃんに出会えたから何とか大学生活頑張れました。ありがとう。

僕の死にたいは誰が作ったんだろう。でも、僕は僕の死にたいを誰かのせいにはしたくなくて。やっぱり不甲斐ない僕のせいです。
こんなことになるとは思っていなかったのは、きっと私より両親の方だと思います。一人娘がこんな人間に育ってしまって、本当にごめんなさい。ここまで読めばわかってくれると思うけれど、わたしがずっと死にたかったのもこれから死ぬのもパパとママの育てかたが悪かったせいでもパパとママとの関係性のせいでもありません。全ては僕がこんな人間としてこの世に生まれてしまったことです。ごめんなさい。謝っても謝り切れません。ごめんね。ごめんなさい。
パパとママには、僕のことなんか忘れて、幸せに生きて欲しい。それだけです。パパとママの娘に生まれて本当に幸せでした。22年もこんな娘を育ててくれて本当にありがとう。沢山迷惑をかけてごめんね。大好きです。世界で一番幸せになってね。娘より。